回転寿司チェーン大手「スシロー」で、高校生の少年が醤油ボトル、湯呑み、寿司に唾液を付着させた事件に関し、少年の「法的責任」に関する「意見」「感想」の「言い合い」がネット上を賑わせています。そのなかで、「懲罰的損害賠償」をわが国でも導入すべきとの「意見」「感想」が多数みられます。しかし、そこには数々の問題があります。懲罰的損害賠償の制度について、理論的問題も含め解説します。

懲罰的損害賠償とは

懲罰的損害賠償とは、不法行為に基づく損害賠償請求訴訟において、被害者の損害をカバーするのにプラスして、加害者に制裁を加えて将来の抑止効果をはかるために賠償金を上乗せすることをいいます。

もともと「英米法」の概念であり、特にアメリカにおいて発展してきたものです。

懲罰的損害賠償で有名なのは1994年の「マクドナルドコーヒー事件」判決です。これは、ファストフードチェーン店舗のドライブスルーで店員がコーヒーを被害者の膝にこぼして火傷を負わせたという事件です。

陪審員による評議の結果、300万ドル近く(約3億円)の賠償金を命じる評決が下されたことが、誇張含みでセンセーショナルに取り上げられ、話題になりました(実際にはその後、裁判官は「賠償額の3倍」への減額を命じ、約60万ドルで解決しています)。

他に、アメリカで懲罰的損害賠償が認められた事件の代表的なものとして、以下が挙げられます(括弧内は連邦最高裁判決が下された年)。

・「大手自動車メーカー」が自動車(新車)の車体に再塗装を施した事実を告げずに販売したとして訴えられた事件(1996年

・「大手損害保険会社」が保険金の支払いを不当に拒絶したとして訴えられた事件(2003年)

・「大手タバコメーカー」が長年にわたりタバコに害はないと宣伝して市場に流通させ、それを信じた愛煙家が健康を害して死亡したと訴えられた事件(2007年)

これらの共通点は、いずれも、巨大な経済力と社会的権力をもち、社会的影響力を行使する大企業による悪質な行為が対象となっていることです。

個人が大企業に対して損害を与えるケースについてはあまり想定されていないといえます。

ただし、この点については、今日のような高度にITが発達した時代においては、個人がいわゆる「知能犯」として、大企業を狙って意図的に甚大な損害を加えるケースも考えられなくもありません。

しかし、「スシローペロペロ事件」は知能犯どころか、それとは程遠い、「年齢相応の判断力を持ち合わせない、浅慮な少年」による「稚拙きわまりない悪戯」の類いであり、巨大な社会的権力と社会的影響力を行使する大企業の悪質行為に比肩するには、理論的にかなり無理があるといわざるを得ません。

また、社会防衛・再発防止という見地から現実的に考えるのであれば、この少年に施すべきなのは、どちらかといえば「懲罰」「制裁」よりむしろ「社会化」「教育的指導」です。

懲罰的損害賠償に関する問題点

懲罰的損害賠償については様々な議論がありますが、重要な理論的問題点は、おおむね以下の2つに集約されます。

懲罰的損害賠償をめぐる理論的問題】

1. 刑事罰との境界・区別が困難であり、加害者に「二重の危険」を強いるおそれがある

2. 懲罰的損害賠償の額が無限定になるおそれがある

◆問題点1|加害者に「二重の危険」を強いるおそれがある

まず、懲罰的損害賠償は刑事罰との境界・区別が困難であり、加害者に「二重の危険」を強いるおそれがあるということです。

英米法で懲罰的損害賠償という概念が生まれた背景としては、もともと、11世紀のいわゆる「ノルマン・コンクエスト」以来の「陪審制」の下、刑事裁判と民事裁判の境界が曖昧だったことが挙げられます。

しかし、その後、英米法においても、民事裁判と刑事裁判の分化が進みました。その結果、特に、イギリスでは、現在、民事裁判における陪審制が廃止されたこともあり、懲罰的損害賠償が機能する場面はきわめて制限されています。

他方、アメリカでは、前述の「マクドナルドコーヒー事件」のところで述べたように、民事裁判にも陪審制が残っており、懲罰的損害賠償が今も機能しています。これは、刑罰とは一応区別して、社会的制裁としての意義を持たせるという考え方に基づくものです。

ただし、アメリカでさえ、ともすれば加害者に「刑罰」との二重の危険を強いるリスクがあることは指摘されています。

また、「大陸法」由来の法体系をもつ日本においては、民事と刑事がはっきり分かれています。すなわち、民事責任(不法行為責任)の追及の目的は「損害の填補による被害者救済」にあります。これに対し、刑事責任追及の目的は「社会的制裁を科すことによる犯罪予防・法益保護・秩序維持」にあると考えられています。

民事上の「損害賠償」と、刑事罰である「罰金」「科料」等は目的が異なるのです。

ここに「懲罰的損害賠償」の制度を導入した場合、刑事罰との関係が問題となります。すなわち、同じ行為に対して、刑事罰で社会的制裁を科しておきながら、さらに民事でも社会的制裁として「懲罰的損害賠償」を科すのは、どのような論拠に基づくものか、という問題です。

スシローペロペロ事件」を契機に「懲罰的損害賠償」の導入を主張する論者が、この点について考慮したうえで意見を発しているのか、甚だ疑問です。

◆問題点2|懲罰的損害賠償の額が無限定になるおそれがある

2つめの問題は、懲罰的損害賠償の額が無限定になるおそれがあるということです。

日本でも、「スシローペロペロ事件」に関し、一部に「株価下落分の168億円についても少年に責任を負わせるべきだ」という冷静さを欠いたきわめて感情的・恣意的な意見がありました(実際には、株価の下落についてはそもそも事実的因果関係すら認めるのが困難です)。

また、根拠を示さず「株価下落分の1%でも払わせるべき」「一生かけて償わせるべき」などという意見も散見されます。

しかし、これらは、いずれも根拠がないものです(詳しくは2月10日の記事「【検証】『スシローペロペロ事件』で少年に「168億円の賠償責任」を問うことが無茶すぎるワケ」で解説していますので、興味がある方はそちらをご覧ください)。

この点については、懲罰的損害賠償の本場ともいえるアメリカにおいてさえ、重要な問題として扱われています。

すなわち、アメリカにおいては、州によっては州法において懲罰的損害賠償の額に上限が設けているところがあります。また、連邦最高裁も、過大な懲罰的損害賠償額を科することについて否定的な姿勢を示しています。

その背景には、英米法において「適正手続の保障(due process)」がきわめて重視されるということがあります。

懲罰的損害賠償の本国であり、過激な訴訟社会と揶揄されることもあるアメリカにおいてさえ、このような問題が議論されていること、損害賠償額が不相当に過大にならないよう注意が払われていることに、留意する必要があります。

現に、前述した「マクドナルドコーヒー事件」においてさえ、最終的には、賠償額が「3億円」よりも著しく低い金額で決着しました。

そういった背景・実情を踏まえず、安易に「日本にも懲罰的損害賠償を導入するべき」などと喧伝することは、法秩序を軽視し、私的感情・俗情に基づくリンチを肯定することにつながるおそれがあり、厳に慎まなければなりません。

(※画像はイメージです/PIXTA)