2023年下半期(7月~12月)にプレジデントオンラインで配信した人気記事から、いま読み直したい「編集部セレクション」をお届けします――。(初公開日:2023年7月9日
徳川家康の嫡男・松平信康とはどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「家康の外交方針に背き、母親の築山殿と共謀して武田家と内通していた。自害したのは家康の意向で、大河ドラマで描かれるような信長からの圧力が原因ではない」という――。

■なぜ家康はみずから妻子の死を処断したのか

松平信康事件。それは徳川家康の生涯でも最大の痛恨事だったに違いない。そもそも戦国大名といえども、家康のように正室と嫡男の命を奪った例などほかにない。いうまでもなく、極めて異常な事件だった。

むろん家康自身、正室の築山殿(ドラマでは瀬名)と嫡男で21歳の信康の命をともに奪うことなど、避けられるなら避けたかっただろう。それでも死ぬことを命じたのは、処断するほかなかったからである。

この事件については、同時代の史料がほとんどないため、真相を明確に記すことは難しい。しかし、かぎられた史料と当時の状況から、一定の推測をすることはできる。近年、研究成果もかなり重ねられている。

そこから言えるのは、信康の素行が悪かったであろうこと、父や義父である信長に反抗的だったこと、謀反に関係したことなどで、家康はこのような身内の不祥事について、みずから落とし前をつけたのだ。

ところが、NHK大河ドラマ「どうする家康」の第25話「はるかに遠い夢」(7月2日放送)では、気高い心をもつ妻子が、信長からの圧力が原因で死に追いやられた、という描き方で視聴者の涙を誘っていたので、強い違和感を覚えた。

■信長が家康に与えたメッセージ

この事件がドラマでどう描かれたか、確認しておきたい。

第23話「瀬名、覚醒」(6月18日放送)では、信康(細田佳央太)に乱暴狼藉が目立つ様子が描かれた。たとえば僧を切り殺し、それをとがめる周囲に激高する場面だが、原因は長引く武田との戦いのなかで、強くなろうとするあまり、自分を見失ってしまったからだとされた。

続く第24話「築山へ集え!」(6月25日放送)では、母である築山殿(有村架純)の、奪い合うのではなく与え合うことで戦争をなくす、という荒唐無稽の構想に同調。「私はもうだれも殺したくはありませぬ。戦はやめましょう」「日本国がひとつの慈悲の国となるのです」と、父である家康に力説した。

そして第25話。信康と築山殿が謀反とのうわさを受け、信長は家康に「お前の家中のことじゃ。わしはなにも指図せぬ。お前が自分で決めろ」と言う。

一見、家康に判断をゆだねたようだが、重臣の佐久間信盛がすかさず「家康殿、なにをせねばならぬか、おわかりでしょうな。ご処分が決まり次第、安土に使いを」と、信長の真意を伝えた。要は、妻子の命を奪う以外に道はない、と家康に圧力をかけたのである。

■徳川家を守るためにみずからの命を捧げる

不思議なことに、ドラマでは信長からの圧力を受けて家康が家臣たちと話し合う場に、裁かれる側の信康も築山殿も同席していた。まるで現代の家族会議である。

信康が「私が腹を切る」と言うと、家康は「信長と手を切る」「お前を死なせるくらいだったら、わしが腹を切る」など、およそ領国を守るべき戦国大名にあるまじき発言を繰り返し、挙げ句、信長をあざむくことを決める。すなわち、2人を死んだことにして、逃がすことにしたのだ。

一方、築山殿は、信長の長女で信康の正室である五徳(久保史緒里)に、信長に信康と築山殿への苦情をつづった手紙を書かせた。すべての責任を自分が負い、徳川家を守ろうという決意の表れで、五徳は信康とも築山殿とも不仲だった、という通説とは逆の描き方だった。

信康は生き延びることを潔しとせず、「力づくでもお逃がししろと、殿の命にござる」という家臣の言うことを聞かずに、相手の刀を奪って自分の腹に突き刺した。それは徳川家を守るためにみずからの命を捧げるためだ、という描き方で、涙を誘おうというねらいが見てとれた。

そして、信康の死を知った家康は倒れ、寝込んでしまう――。

■家康が自分の意志で処罰した

たしかに以前は、信康は信長の命で切腹させられたと考えられていた。それは江戸初期に旗本の大久保忠教(いわゆる大久保彦左衛門)が書いた『三河物語』に拠っていた。

そこには、五徳が信康の不行状を12カ条にわたって書いて信長に届け、尋問された酒井忠次がすべて真実だと答えたため、信長は家康に信康の切腹を命じた、と書かれている。

だが、いまでは『三河物語』の記述には、徳川家の不名誉を信長と五徳、および酒井忠次のせいにしてしまおうという著者の意図が指摘されている。

一方、家康が信長の重臣の堀秀政に宛てた書状、および『当代記』、『安土日記』などのより信頼性の高い史料には、家康がみずからの意志で信康を処罰した旨が記されている。それらによれば信長は、家康から信康処断の意志を聞いて了解し、家康の思うとおりにすればよい、と言ったにすぎない。

『当代記』によれば、家康は酒井忠次を信長のもとに派遣し、信康が家康の命に背くばかりか、義父である信長のことも軽んじ、家臣に対しても非道な振る舞いが目立つので幽閉する、と伝えたという。

■信康自害までに起きた本当のこと

平山優氏は、家康が忠次を信長のもとに派遣したのは、「『信長公記』にみえる七月十六日の酒井の安土訪問を指すものとみて間違いない」としている(『徳川家康武田勝頼幻冬舎新書)。天正7年(1579年)のことである。そして、いちど覚悟を決めた家康は、その後、断固とした態度を貫いている。

8月3日には岡崎城を訪問し、翌4日には、信康を激しい口論の末、領国の西端で織田領と接する大浜(愛知県碧南市)に幽閉した。黒田基樹氏は「この大浜への追放は、信長にそのことを明示するためのもの、とみなされる」と書く(『徳川家康の最新研究』朝日新書)。そして5日には三河衆を率いて西三河に進軍したが、黒田氏は「信康に味方する三河衆の存在を想定し、西三河に進軍することで、それを牽制するためであったろう」と解釈する(同)。

6日に岡崎城から信康の家臣団を排除して、榊原康政ら家康直系の家臣を配置。9日に信康を、浜松城に近くて監視しやすい堀江城(静岡県浜松市)に移すと、10日には、三河衆に信康に内通しないことを誓う起請文を書かせた。

これだけのことをして家康は13日に浜松に帰った。信康が二俣城(または近くの清瀧寺、ともに静岡県浜松市)で切腹したのは、2日後の15日だった。ちなみに家康は、三河衆の松平家忠が書いた『家忠日記』によれば、13日には家臣たちに、17日には北条氏と協力して武田勝頼を攻めると明言し、実際に出陣している。

この流れのなかに、信康や築山殿を交えた家族会議を開く余地も、信康を力づくでも逃がそうとする余地も、家康が信康の死にショックを受けて寝込む暇も、なかったとしか思われないのである。

■1年前から信康を危険視

では、なぜ信康は処断されなければならなかったのか。前出の平山氏が、『三河物語』『松平記』『岡崎東泉記』などに書かれた内容を簡潔に抽出しているので、引用したい。

「①信康が尋常でない荒い気性の持ち主であったこと。/②鷹狩りに出た時に、成果が出ず苛立ち、たまたま出くわした出家に八つ当たりをして、無残にも殺害したこと。/③踊りが下手だったというだけで、町人を弓で射殺したこと。/④築山殿が、武田方と内通し、信康にもこれに同調するよう勧誘したこと。/⑤しかもこれを知った家康が、信康を訓戒したもののまったく聞く耳を持たなかったこと」

五徳がこうした内容を書いて信長に送ったとされており、その時期を黒田氏は、天正5年(1577)12月か同6年1月、信長が鷹狩りの際に岡崎城に立ち寄ったときではないか、と推定する。そうであれば、信康が自刃する1年数カ月前には、信長の耳に届いていたことになる。

『家忠日記』によれば、信長が岡崎城に立ち寄った直後の天正6年(1578)2月9日、信康は岡崎衆になんらかの働きかけをし、10日には直接、家忠を訪ねている。これは追い詰められた信康による多数派工作だったと思われる。

むろん、家康はそれを放置せず、同じ年の9月、すなわち信康が自刃する1年前に、岡崎城下にいる三河衆をすべて本拠に帰させた。そのときにはすでに信康を危険視し、家臣団と切り離そうとしたのだと考えられるのだ。

■処分されても仕方がなかった

信康事件の本質は、柴裕之氏の以下の記述に集約されるだろう。

「武田氏との戦争の続行を求める、遠江浜松城の家康を中心とする権力中枢の主戦派と、武田氏との接触を持ち、敵対を見直そうとする三河岡崎城の信康周辺との間で、対武田氏外交の路線をめぐる対立が再燃したのである」(『徳川家康』平凡社)。

そんな状況では同盟相手で、事実上の主君であり、信康の義父でもある信長に申し開きできないのは当然だ。そもそも徳川家中の分裂は家康の責任であり、家康には信長に、みずからの責任のとり方をしっかりと見せる必要があった。

なにしろ、すでに「信康逆心」の風説が流れていたのだ。平山氏の以下の記述が的を射ている。

「中世は、悪事の噂が流布するだけで、領主や地域社会から罪科認定を受ける根拠となりえた時代であった。ましてや戦国大名当主の嫡男が、父や義父への『逆心』を企てているという雑説が流れ、それが少なくとも徳川家中に知れ渡った以上、家康は処断に踏み切らざるをえなかったと考えられる」(『徳川家康武田勝頼』)。

■決して信長が冷酷だったからではない

どうする家康」では、家康が信長の魔手から信康の命を守る、という面ばかりが強調された。親が子の命を守りたいのは当然だが、当時の家康の立場で、それをどうやって守ることができただろうか。守れなかったのは、ドラマで描かれたように信長が冷酷だからではない。家康に非があったからである。

たしかに、信康事件は謎に満ちている。それでも、周辺史料と状況証拠に当時の時代状況や常識を加味し、一定の推測はできる。

ところが「どうする家康」は、謎が多いことをいいことに、現代人の感覚で物語を空想している。リアリティがないのは当然である。

----------

香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

----------

松平信康の肖像(画像=『新編 安城市史1 通史編 原始・古代・中世』/勝蓮寺所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)