1月に起きたイラン革命防衛隊・コッズ部隊のソレイマニ司令官の殺害以降、それまで激しい挑発と恫喝を繰り広げていた米国とイランの関係は沈静化しているように見える。イラン国内での新型コロナの感染爆発に加えて、優れた戦術家だったソレイマニ司令官を失ったことで、コッズ部隊が機能不全に陥っているという声も漏れる。言い換えれば、ソレイマニ殺害という米国のカードが効果的な一手だったということか。

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 ただ、筆者は必ずしもそうは見ていない。表面上の静けさの裏で、3月以降、シーア派民兵組織による在イラク米大使館へのロケット攻撃や革命防衛隊の戦艦による米海軍の軍艦船への異常接近、衛星搭載ロケット(SLV)の発射、ベネズエラへのガソリン輸出、イエメン・フーシ派によるサウジアラビアへの越境攻撃など、地域の緊張は徐々に高まっているようにも思える。

 イランは何を考えているのか──。今後の米イラン関係を占うために、ソレイマニ殺害まで時計の針を戻してみよう。

ソレイマニ暗殺直後のテヘラン

 "Suleimani dar Arag terror shod."(ソレイマニがイラクでテロに遭った。)

 1月3日未明、短いWhatsAppメッセージが入ってきた。筆者と同じく、イラクアフガニスタン勤務経験のある旧知のイラン人ジャーナリストからだった。この日、イラン人パイロット主催のパーティーで深夜まで盛り上がり、ぐっすり寝入っていたのだが、この一報で飛び起きた。

「あぁ、もう世界が変わってしまった」というのが、最初に浮かんだ率直な感想で、それは半年以上経った今も変わっていない。この日を境に、2019年来、高止まり感のあった米イラン間の緊張は、そのさらに上のレベルへと一挙に高まっていく。 

 1月3日早朝、その名の通り、イランの安全保障に関わる事項を最高レベルで協議する「国家安全保障最高評議会(SNSC)」は、異例にもハメネイ最高指導者自らが出席する形で開催された。しかし、声明発出は午後7時までかかった挙句、結局その内容はぼかしたものとなった。強硬な報復を打ち出したいグループと、それを少しでも阻止したいグループの間で喧々囂々の議論があったのではないか。

 ハメネイ最高指導者により、3日間の服喪が宣言され、テヘランの街の雰囲気は一変した。暗殺を事前に知っていたのではないかと勘ぐりたくなるほどの手際で、3日の午後には、市内の至る所に哀悼の横断幕、喪に服す黒い旗が掲げられ、季節外れのアーシューラー(注:シーア派イスラム教徒が、イスラム教共同体の正統な指導者と考えていた預言者ムハンマドの孫フサインが殺害されたことを悼む宗教行事)が突如やってきたかのようだった。

 1月6日テヘランで開催されたソレイマニの葬儀に集まった群衆は、3年前のラフサンジャニ師のものをはるかにしのぎ、「ホメイニ師級」とも言われた。ザリーフ外相は、「このような人海(a sea of humanity)を目にしたことがあるだろうか」とつぶやき、ハメネイ最高指導者やその後継者とも言われるライースィ司法権長がおいおいと涙を流す姿が国営放送を通じて繰り返し映し出された。 

 イランでの親政府デモや集会の多くは、「体制側による動員だ」などとよく言われるが、あの「人海」は動員だけでは到底不可能だ。そのようなシステムが存在するのであれば逆に恐ろしい。保守派のみならず、いわゆる改革派、穏健派、現実派と呼ばれるような人物からもソレイマニは賞賛されていた。筆者の周りでも、「単なる人殺し、テロリストでしょ」と切り捨てる若者もいた一方で、ルーサリー(注:女性が髪の毛を隠す布)から金色に染めた髪の毛が丸見えのイマドキな女性なども追悼の輪に加わっていたのが印象的だった。 

「全面戦争」に踏みとどまったイラン

 その後、イラン正規軍や革命防衛隊の幹部などから「稚拙には対応しない」との趣旨の発言が続き、3日間の喪が静かに明けた。イラン側は重要なポイントについては組織を越えて対外発信ラインを揃えてくる傾向がある。そのため、報復行動にはもっと時間をかけるのではないかとホッとしたのも束の間、8日未明、イラク駐留米軍基地弾道ミサイルが打ち込まれ、またもや飛び起きることになった。全く心臓に良くない年明けだ。この時点で、「あぁ、やってしまった。これはマジでやばいことになったかもしれない」と内心大いに焦り、「全面戦争」すらも一瞬頭をよぎった。

 しかし、少しずつ事態が飲み込めてくると、やはり「稚拙には対応しなかった」ことが見えてきた。イランの正規の軍隊の最高幹部の一人を暗殺されるという「宣戦布告」を受け、最高指導者らが涙を流して強烈な復讐を誓った手前、手下の代理組織を使った小手先の対応では許されず、相応の報復をイランが自ら手を下したという形で実施する必要があった。

 同時に、米国のレッドラインをさらに踏み越え、イラン国内の重要施設52カ所の爆撃を誘発し、体制の崩壊へ向かうガチンコの全面対決につながっては元も子もない。このバランスを取るため、直前ながらもイラク側に攻撃を通報し、米国側に死者が出ないギリギリの寸止め攻撃に落ち着いたのであろう。これも危うい賭けではあったが。

 正直、怒りに任せた暴挙に出るのではないかと危惧したが、イランは生き残りをかけたバランス感覚で踏みとどまった。誤解を恐れずにざっくり言えば、一般に「イランは何をするか分からない」と脅威論を唱えるのがアラビスト解説者、いやいやとイランの柔軟性・現実主義を信じたいと願うのが筆者のようなペルシャ語族である。実際のところは、その中間くらいなのであろうが、今回は、後者の方がより正解に近かったと言えるだろうか。

 ちなみに、このイランの反撃は「殉教者ソレイマニ作戦」と名付けられ、ソレイマニが殺害されたのと同時刻に、ソレイマニを殺害したドローンを発射した基地に対して実施し、それを見届けた後、ソレイマニの遺体は埋葬されたそうだ。仇討ちの演出だろうか、いかにもシーア派イランらしいやり方である。

ソレイマニとは何者だったのか?

 そもそも、彼はいったい何者だったのか。1998年、ソレイマニがコッズ部隊の司令官になった年、筆者は外務省で“イランウォッチャー”になった。最初に彼の名前を聞いたのは、約20年前になる最初のイラン在勤時、2001年の9.11アメリカ同時多発テロ事件)の後、米国による対アフガニスタン攻撃が始まる頃だっただろうか。当時の筆者が彼に抱いていたイメージは、神出鬼没の謎の存在、まさに“the Shadow Commander”(New Yorker紙)であり、 少なくとも、大統領候補として注目され、Tシャツやマグカップなどの“ソレイマニ・グッズ”が故ホメイニ師やハメネイ最高指導者と並んで出回るような存在では全くなかった。

 残念ながら、彼に直接会ったという人に話を聞くことは難しいが、いろいろな話を総合すると、寡黙、冷徹、清貧、小柄ながらも存在感・カリスマがあり、自らが現場に赴き、時には自身の危険を顧みない行動を取る人物、あるいは最高指導者を含めあらゆる者とつながっていると言われるネットワークの起点、ある勢力と別の勢力をつなぐ「触媒」、「Power Broker」といった存在であったようだ。ソレイマニ自身は公の場で自らを「最も小さな兵士(the smallest soldier)」と呼び、ハメネイ師は「生ける革命の殉教者(a living martyr of the revolution)」と称賛していた。実際、完璧な「殉教」を遂げた。

 では、いつから注目を浴びるようになったのか。友人であり著名なイラン研究家であるAli Alfoneh氏によれば、2003年のイラク戦争以降、米国メディアが取り上げ始めたことが契機となったそうだ。イランでは、「米国が嫌がることはイランにとって良いことだ」と信じる傾向がある。米国メディアが「脅威」として書き立てたことにより、イラン体制の目に留まり、自らのプロパガンダに使えるヒーローとして重用し始めた。また近年、特に過激派組織「イスラム国」(IS)の脅威をイラン国境から離れた場所で叩いてくれたとして、より広い国民の層にある種のヒーローとして認識されたようだ。

 ソレイマニ自身がヒーロー扱いされることを心地良いと感じていたかは分からないが、イラン体制側としては、革命精神を体現するモデルとして、この厳しい時代に国民の団結を促す政治的なリーダーにと準備していたのかもしれない。しかし、ソレイマニはあきらかに「現場の人」であり「優れた戦術家」であったが、国家の大きな方向性を構想するような戦略家ではなかった。

イランの地域戦略はソレイマニ死後も不変

 ソレイマニの殺害により、イランの地域戦略は変更されたのだろうか。結論から言えば、それは全くない。

 確かに、イランにとり、たぐいまれな司令官を失ったことは痛手だっただろう。しかし、イランの大きな地域戦略は体制指導部内で決定されている。また、コッズ部隊にしても、組織で動いている。後任となったカーニ司令官は、長年副司令官としてソレイマニとは通常別行動をとり、ソレイマニがイラクシリアレバノン方面、カーニがアフガニスタン方面といった大まかな役割分担をしていたとの指摘もある。そもそもソレイマニとしても常に死の危険と隣り合わせであることは自覚していただろうし、組織としてもリスクヘッジやシミュレーションは行っていただろう。

 では、ソレイマニ殺害により、米国は抑止力を得たのだろうか。2019年6月のイランによる米国の偵察ドローンの撃墜、英国籍タンカーの拿捕や9月のサウジアラムコ施設へのドローン攻撃(注:2020年6月、この際に使用された武器がイラン由来のものであると明記された国連報告書が発出された)など、月替わりメニューのような事案が続いていたこととの比較で、イランおとなしくなったとの指摘がある。

 昨年来、「イランの挑発と米国の恫喝のチキンレース」は続いていたが、体制崩壊に至り得る米軍の地上侵攻はないと足元を見るイランが、米国のレッドライン(米国人の死に対しては、代理勢力によるあいまい戦術だとしても断固たる対応を取る)を踏み越えてしまったことを思い知らされたのであり、一定のショックを受けたことは事実だろう。

 しかし、それがイランのこれまでの行動パターンを変化させることにはなり得ない。イランが置かれた状況は同じであり、「革命体制の護持」というその究極の目的は不変なのだから。1月8日午前、米軍基地への攻撃後、初めての演説で、ハメネイ最高指導者は「我々の責務は何か」と問いかけ、「昨晩、敵に“一撃”を食らわせたが、そのような軍事的行為では満足しない。重要なことは地域における腐敗に満ちた米国のプレゼンスを終わらせることである」と述べ、イランの抵抗は終わることなく、中東地域に米国が安住できぬよ嫌がらせし続けるとの意志を明確にしている。

 確かに、2019年の激しい挑発に比べれば、一見沈静化したかのようにも見える。これには、革命防衛隊が主要な役割を果たしている、イランにおける新型コロナウイルスとの闘いも無縁ではないだろう。さらなる経済的な苦境によって、代理勢力への金銭的支援が低下していることもあるのかもしれない。

 しかし、2020年3月にはシーア派民兵組織による在イラク米大使館へのロケット弾攻撃、4月にはペルシャ湾で米海軍の軍艦船に革命防衛隊の戦艦が異常接近し、「イランは米国との適切な“ソーシャル・ディスタンス”も維持できない」とのジョークもささやかれた。そして、同じ4月に、衛星搭載ロケット(SLV)を発射し、5月にはベネズエラへのガソリン輸出、6月にはフーシ派によるサウジアラビアへの越境攻撃など、徐々に地域の緊張は高まっているようにも思える。(注:そのほか、直近のソレイマニ関連では、イラン6月9日に司令官暗殺の協力者に対して死刑判決を下し、また29日には同暗殺に関与したとして、トランプ大統領を含む36名についてインターポールに国際指名手配を要請した。)

米大統領選に向けて緊張高まる米イラン関係

 それでは、ソレイマニの死は何も残さなかったのだろうか。否。まず、米イラン間の劇的な手打ちの可能性は確実に遠のいただろう。少なくともハメネイ最高指導者の目の黒いうちは。かつての対タリバーン闘争で協力したにもかかわらず、「悪の枢軸」発言で裏切られ、さらにイラクにおけるIS掃討作戦における一定の協力すら使い捨てにされた怨念は消えることはないだろう。

 そして、より重要なのは、ソレイマニ殺害と米軍基地への弾道ミサイル攻撃という米イラン間の前代未聞の直接的な殴り合いは、従来のような、イランの関与が曖昧で、代理勢力による非対称な攻撃とそれに対する米国側の反応という状況から、グンとレベルが上がってしまったことである。(現在、表面上はプレ・ソレイマニ・モードに一旦戻っている感はあるが、)これは次のレベル(イラン国土内への攻撃)へつながる危険な火種ともなり得る。たとえが適切か全く分からないが、これまで互いの手が触れてドキドキしていた二人が、初めてキスしてしまったような・・・。

 米イラン間の緊張関係の趨勢については、コロナ以前から、ノウルーズ(イラン正月)休みやラマダンなどで5月いっぱいくらいまでは沈静化し、イランが11月の米大統領選挙に影響を与えることを考えるのであれば、その2-3カ月前、8月以降何らかの動きがあるのではとの見方があった。現在、米イラン間での拘束者の交換や武器禁輸延長を含むイラン核合意(JCPOA)の行方が注目を集めている。その裏で、地域の緊張のうねりは高まりつつあり、米大統領選挙が近づくにつれ、イラクやペルシャ湾の情勢に加え、後任となったカーニ司令官の裏庭ともいわれるアフガニスタンでのイランの動きにも注視していく必要があるだろう。

(※本稿は、個人的な見解を表明したものであり、筆者の所属する組織の見解を示すものではありません。また、固有名詞のカタカナ表記は一般的な表記に合わせています)

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ソレイマニ殺害の報復として、イランはイラク駐留米軍基地へ弾道ミサイルを打ち込んだ。基地に被害は出たが、死者を出さないという寸止め攻撃だった(写真:AP/アフロ)